春という季節に際しての話。大した内容じゃあないよ。

今日は大雪が降ったので別としてもここ数日の名古屋は少しずつ春の気配を感じさせるような気候で、もうすぐやってくる春の気配に僕は少しばかりヤラれていたりする。

春というのは華やいだ季節ではあるけれども終わりと始まりの季節でもある。
三月に終わって、四月ですぐに始まる。卒業に入学に内示に部署移動に、と環境が変わったり終わったり始まったりするのはきまってこの季節。
というわけで「春=終わりと始まりの季節(出会いと別れの季節と言っても良い)」の方程式が僕の中でも成立しているわけなのだけれども、今年の春、僕は何も終わらないし何も始まらなさそうで、それっていうのはまあ安定しているっていう意味でも良い事だし、自分の身を置く環境の変化というのもまだ少しの間なさそうではあるからして、まあ良くも悪くもない事なんだけれども、春の気配から感じられるそんな「変化」に対して「変化しない」自分が若干ナーバスになるというか、勝手に「置いて行かれた!」だなんて感じてしまっているというわけなのだ。
なんとも手前勝手な事よ。

一瞬「強引に何かを終わらせて何かを始めてみるか」と無茶苦茶な事を考えてもみたけれど(無茶苦茶、と言いながらこういう半ば形式に無理やり自分を従わせる、という行動が新しい何かを生み出し得るという事もわかっている。人間というのは構築と破壊を繰り返すものだと思っているから)、ご飯を食べながら10分程考えてみた結果ワクワクするようなアイディアも思い浮かばなかったので棄却。ここは素直に「置いて行かれている感」を楽しむ事にした。
人間は現状に満足すると未来と過去に意識を向けたりするもので、ネガティヴな発想というのは過去からやってきたりする、僕の場合は。A=BならばB=Aというようにネガティヴな時は過去に向かうようで、僕はセンチメンタルとともに懐古的になってみたりもした。懐古趣味それ自体は悪い事ではない。「昔は良かった」という論旨もそれを言う人間とシチュエーションによって良い意味にも悪い意味にもなる。ノスタルジーというのは前進のために必要な事だ。
しかし僕が浸ったノスタルジーは生産性もへったくれもなかったし、おまけにどんどん加速した。
過去の改竄と美化は紙一重、3年前では「こうだったらいいのにな」と妄想を元手にした仮定で彩る事を楽しんでいた10年前の出来事は3年の時を経て「こうだった」と半ば現実味さえ伴っており、僕は事実の改竄は不可能でも事実に向き合った自分の心情は改竄可能なのだと知った。時間の経過と成長を悪用する大人になるとこういう事を平気でするようになってしまうのだった。

ナルシスティックな感情に浸る行為とは幾分距離をとるように心掛けていたけれど、その行為と落とし前のつけ方次第では幾分かカンフル剤の役割を果たすのだと思い出した。そういうのを大事にしないと超然とはしているけれども情緒のある大人にはなれやしない。
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舟橋孝裕

Author:舟橋孝裕
愛知県在住、ベースギター奏者です。
・JONNY
・パイプカツトマミヰズ
・犬栓耳畜生
・白線の内側
 やサポートでベースを弾きます。

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